千々石ミゲルはどのような時代に生まれ、なぜキリスト教を信仰したのか。
そして、使節団としてローマへ向かったミゲルは、そこで何を感じ、何を決意してきたのか。

謎に包まれるミゲルの生涯

私たちはその歴史をひも解き、真実を明らかにしていきたい。

『南蛮人来朝之図』(長崎歴史文化博物館所蔵)

 16世紀後半から17世紀前半という時代は、国内的には混乱から安定へと向かう激動の過渡期にあたり、それまでとは異なる新たな価値観が模索された時代でした。その模索の時代にキリスト教は伝来し、日本のその後に多大な影響を及ぼしました。これがフランシスコ・ザビエルによるキリスト教伝来で、1549年の鹿児島上陸から始まります。
 キリスト教の伝来は、とくに地方の一般民衆にとっては大変な喜びだったと思います。宣教師自らが直に自分たちのところにやってきて、現世での安穏と来世救済の願望に応えてくれる。それまで寺院や金箔の仏像にほとんど縁のなかった民衆にとって初めての経験だったと思われます。しかしその一方で、日本の伝統文化を破壊したり、領土的野心で世俗領主と軋轢を繰り返すなど、日本社会を混乱に陥れたことも事実です。
人心を救済するキリスト教とその6年ほど前に伝わった人を殺める鉄砲は、相反する性質にも関わらず、戦国争乱の不安定な社会でともに求められました。その中で両者はおのずと一体化し、新たな戦術や価値観を模索していた領主層や、現世や来世での救済を期待していた民衆に受け入れられ、急速に広まったものと考えられます。
 千々石ミゲルが生まれたのも、そんな明日の世も分からないような戦国騒乱の真っただ中でした。ミゲルは1569年頃に釜蓋(かまぶた)城の城主の子として、現在の雲仙市千々石町で誕生しました。ザビエルの鹿児島上陸から約20年後のことですが、ミゲルが生まれる数年前の1563年には千々石家もキリスト教と関わりをもちました。
 当時の千々石氏は、有馬氏の一勢力として佐賀の龍造寺勢力との戦いに明け暮れていました。父・直員(なおかず)は1570年に戦地で亡くなり、その後を受け継いだミゲルの兄・大和守も、1577年に龍造寺軍の千々石攻略によって自刃したとされています。この兄の死を受けて、ミゲルは千々石家再興に向かうただ一人の嫡子となったのですが、このことが後々まで彼の人生に大きく影響したと考えられます。
龍造寺軍による千々石侵攻の前の1572年、ミゲルは4歳の時に乳母とともに大村に逃れたといわれ、その大村でキリスト教に本格的に触れたと考えられます。当時の大村家は叔父の大村純忠がキリシタン王国づくりに奔走していた時代で、ミゲルが6歳になった1574年にはキリシタンによる神社仏閣の破壊がおこり、領内のほぼすべての宗教施設が灰燼となりました。この時の光景はミゲルの脳裏に深く刻み込まれていたと思われますが、1580年には洗礼を受けて有馬セミナリヨの第一期生として入学しています。そのセミナリヨの学生の中からミゲルら4人の少年が選ばれ、天正遣欧使節という時代的快挙がなされたのです。

画像出典:長崎歴史文化博物館

『天正遣欧使節肖像画』(京都大学付属図書館所蔵)

今から440年ほど前の1582年2月、長崎からローマを目指して旅立った使節団がありました。皆さんご存じの天正遣欧使節です。イエズス会という一修道会が派遣した身内の使節団で、主なメンバーは千々石ミゲル、伊藤マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアンら4人の少年たちでした。使節は大村純忠ら3人のキリシタン大名の名代として派遣されたとなっていますが、実際はイエズス会巡察使のヴァリニャーノによる独自企画と考えられます。それだけに出発当時は、関係者以外ほとんどの日本人が知ることのない、まさにひっそりと旅立った「小さな使節団」でした。
ところがこの使節団は、その後の日本と西欧の交渉史に金字塔を打ち立てたと高く評価されています。それは、帰着するまで8年半もの辛い長旅をやり遂げたという英雄伝からではありません。1584年8月、使節団は長く困難な航海を経て念願のリスボンに着きました。4人にとってこの第一歩はキリスト教の理想郷に入る夢のような瞬間でしたが、それを迎え入れる西欧側は全く逆で、珍奇な動物でも見るような好奇の対象であったのです。使節団が西欧に入る少し前、ローマ教皇が「彼らも人間である」と宣言したのですが、一般の西欧人などはまだまだ旧来の下品な情報しかもっていませんでした。
 こんな見方をする西欧ですから、マンショら4人の使節には少しの無礼や失敗も絶対に許されませんでした。この時から彼らの小さな両肩には、単なるイエズス会の「小さな使節団」という立場を越えて、果ての国・日本を代表する「大きな外交使節」としての役割がのしかかってきたのです。
 出発当時わずか12歳から13歳だった4人は、見事にその重責を果たしました。当時世界最強の覇者であったスペイン国王のフェリペ二世や、念願だったローマ教皇との謁見でも堂々と立ち振る舞い、文明国としての日本を認知させたのです。もちろん、その歓待にはいろんな思惑もあったと思われますが、この壮大なドラマの中心は、4人の強靱な精神力と知的好奇心、そして彼ら自身の世界観にあったと思われます。
 『天正遣欧使節記』という旅行記の中で、千々石ミゲルの言葉として「(自分は)全世界に直属する一個の住民であり市民だ」という文言が記されています。ここから彼の意識が「世界市民」という立場にあったことがうかがえ、地域や国家を飛び越えて世界的視野で物事を捉えようとする壮大な意思力が備わっていたことがわかります。だからこそ年少とはいえカルチャーショックに惑わされることもなく、見事に外交使節としての大役を果たしたものと考えられます。しかも、この時彼ら4人が築いた西欧とのパイプは幕末・明治の近代化を押し進める原動力となり、優位な人材がこのパイプを通して西欧からやってきたのです。
ただ、1年8ヶ月の西欧滞在から4年数ヶ月を経てやっと帰国の途についた彼らには、出発時には予想もしていなかった厳しい現実が待ち受けていたのです。

画像出典:京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

『左:キリスト像(十字架上)踏絵、右:板踏絵 聖母子像(ロザリオの聖母)』(東京国立博物館所蔵)

 日欧交渉史に金字塔を打ち立てた天正遣欧使節団は、出発から8年半後の1590年、長旅を終えて帰国しました。しかし彼らが帰ってくる間に、日本の情勢は大きく変化していました。長崎に帰り着く3年前の1587年には、豊臣秀吉がバテレン追放令を発布。その数ヶ月前にはキリシタン最大の保護者であった大村純忠と大友宗麟が相次いで死去していました。出発時とは大きく様変わりした政情、そして時代の激流に翻弄されながら、その後の4人にはいずれも厳しい運命が待っていました。
 帰国の翌年の1591年、4人はそろって天草でイエズス会に入会します。この時の決意表明がミゲルの言葉(ルイス・フロイス『1591・92年度日本年報』)として残されています。「ドン・ミゲル(千々石ミゲル)はドン・プロタジオ(有馬晴信)にしかるべき謝辞を述べた後、こう語った。どれほど広大な領地をもらったとしても、また有馬殿(が有するの)よりも広大な支配権を得ても、(イエズス)会に入ることを思い留まりはしないであろうと。」。
イエズス会入会時のミゲルの強い決意がいかんなく示されている表明文です。これを読む限り、後にイエズス会を脱会して一線から身を引くなどということは全く想像できません。むしろ、彼を取り巻く様々な難題を乗り越えて信仰にすべてをかけるという強い意思とイエズス会への篤い信頼があったことがよくわかります。
ただイエズス会に入会する際、ミゲルはお家再興のために尽力するか、それともイエズス会に入会して一生を信仰に捧げるかで、苦悩したと思われます。使節に選ばれた時もそうでしたが、イエズス会入会の時も母親は猛反対したといわれています。それでもミゲルは、イエズス会士として一生を捧げる決意をしたのでした。
イエズス会入会から1594年までは他の3人とともに天草の修練院にいましたが、1597年に修練院が閉鎖されましたので、この年までには天草を離れたことは確かです。その後数年間の足取りは不明です。ただ、この間ミゲルがどのような人生を送ったか。その後の彼の行動を考えると、他の3人とは異なり揺れ動いた期間だったようです。
ミゲルの名は、再びドラマティックな舞台に登場してきます。それがイエズス会脱会という衝撃的な史実です。これ以降、ミゲルは運命の歯車に大きく揺さぶられながら波乱の後半生を生き抜くことになります。

画像出典:東京国立博物館研究情報アーカイブズ

千々石ミゲルの墓と思われる石碑(左下の白い屋根)から大村湾(右上)を望む

イエズス会入会時から約10年後の1608年、伊東マンショら3人は長崎の岬の教会で司祭に叙階され、イエズス会士として最後まで活動しました。ところがそこに、ミゲルの名前はありませんでした。それどころか1601~03年頃にはイエズス会を脱会し、大村藩に仕えたとなっているのです。イエズス会入会から約10年の間に何かが起こったのでしょう。1610年頃に成立した『伴天連記』という本には「伴天連を少うらむる子細有て寺を出る」と記されています。「少うらむる子細」が一体どういう事情を指しているのかは興味深い部分ですが、おそらく寺社破壊や征服問題、奴隷問題など布教に関わる諸問題だったと考えられます。その疑念が日々増幅し、ついにはイエズス会脱会という決断に至ったものと思われます。キリシタンの勢いがまだまだ盛んな時期の脱会でした。
 脱会後のミゲルについて、一部の宣教師の書簡などではキリスト教を棄てた裏切り者のような書き方をされており、それがそのまま通説となって、最後は哀れな「枯れない雑草」とまで酷評されています。はたして本当にミゲルはキリスト教を棄てたのか、大いに疑問が湧きます。特にミゲルがイエズス会脱会後に、大村や有馬、長崎というキリスト教が盛んな三地点にトライアングル状の移動の線を結んでいる点は注目すべきです。
キリシタン王国時代の大村藩や日野江藩(旧有馬領)には役人という形で入っていますが、これはキリスト教を推進する立場で仕官したことを意味しています。キリシタン一色の社会を築こうとしている藩が、キリシタンでない人物を役人として採用するとは考えにくいからです。ですから、ミゲルは大村藩が1606年にキリスト教を禁止すると日野江藩に移り、日野江藩が1612年に禁止すると当時「日本のローマ」といわれた長崎に移っていったと考えられます。
 こうしてイエズス会脱会後のミゲルの行動から考えると、キリスト教を棄てたとは到底考えられません。おそらくミゲルは、イエズス会という修道会は脱会したけれど、終生キリスト教の一信徒として生涯を全うしたものと考えられます。
 千々石ミゲル夫妻の墓所であると特定した伊木力墓碑には、夫・ミゲルの逝去年を寛永9年12月14日(1633年1月21日)と刻み、妻はその2日前の12月12日となっています。当時の伊木力村は、時津村や長与村同様に潜伏キリシタンが多くいた集落でしたので、晩年も密かにキリシタン信仰を続けていたものと思われます。この点は、2017年の第3次調査の発掘で、キリシタン聖具に使用されていたガラス玉やガラス片が出土したことでほぼ裏付けられました。
千々石ミゲルが生涯を掛けた命題は、「一神教のキリスト教は、どうすれば在地の伝統文化や宗教と共存できるのか」にあったと思います。だから彼はインカルチュレーション(伝道先の異文化を導き入れて土着化すること)の重要性を認識していたし、日本人の伝統や文化を大切に捉えていたものと思われます。今日、我々が生きる現代社会にも突きつけられている重い命題です。千々石に生を受けたミゲルの人生は、いまの私たちに一番身近な存在なのかもしれません。

天正遣欧使節と千々石ミゲルの年表