調査経緯

2003年12月

諫早市多良見町山川内で巨大な墓石を発見。浮かびだす「千々石」の文字。見えてきた墓所所有者の「浅田家」とは。

2004年2月~2014年8月

千々石ミゲル 子孫 浅田昌彦と石造物研究者 大石一久の出会い。自らの想いと地域の想い、葛藤する中で導いた決断。

2014年9月

地元の協力を得て、民間主導の発掘調査を初めて実施。墓石周辺に一辺2.8mの方形基壇の存在を確認。

2016年9月

基壇が明治時代はじめの頃に整備されたことが判明。しかし、墓壙の存在を確かめることができず調査中断。

2017年8月

基壇を解体し、下部を調査。その結果、墓石に向かって右側から遺骨や歯、キリシタン信仰を伺わせる副葬品が出土。

2021年以降

墓石に向かって左側の千々石ミゲルが眠っているであろう墓壙を調査し、真相解明を図る。最後の大規模調査となる。

| 千々石ミゲル墓石発見 |

| 千々石ミゲル墓石発見 |

2004年2月29日に衝撃的なニュースが報道されました。

「天正遣欧少年使節千々石ミゲルの墓 多良見で見つかる」「天正使節 謎の晩年に光 千々石ミゲル 長崎に墓 キリシタン弾圧新資料」千々石ミゲルの墓石、浮かぶ悲劇の人生。没年判明。俗名隠され戒名のみ」

これらは、当時の当該自治体の多良見町役場教育委員会が報道機関向けに発表した内容で、千々石ミゲルの墓が「見つかった」という報道です。しかし、「見つかった」というのは正確ではなく、墓石そのものは実は地元ではよく知られた存在だったのです。多良見町教育委員会も、発表の30年以上前からわかっていたようです。

きっかけは一本の電話から

きっかけは一本の電話から

多良見町郷土誌に掲載されていた玄蕃の墓石
多良見町郷土誌に掲載されていた玄蕃の墓石

発見からさかのぼる3か月前の2003年9月、石造物研究者 大石一久氏のところに、宮崎栄一氏から電話が入りました。宮崎氏は、以前から千々石家一族を追いかけており、千々石ミゲル(清左衛門)の四男玄蕃の次女が嫁いだ岩永家と宮崎氏の母方の系譜との関係から、ご自身も千々石ミゲルの家系につながるのです。

「実は旧大村藩領伊木力村(現諫早市多良見町)にミゲルの四男玄蕃の墓がありますが、ぜひ一度、一緒に見てもらえないでしょうか」

大石氏は、正直言ってあまり乗り気ではなかったそうで、玄蕃の墓とすれば江戸時代となります。大石氏の研究分野である中世の石塔と比較した場合、近世(江戸期)の墓石は全国どこでも画一化されており、史料的魅力が乏しいのだそうです。

その後、宮崎氏から送られた、『多良見町郷土誌』内の玄蕃の墓石とする写真コピーなどが送られてきましたが、普通の近世墓石にしか見えなかったし、大きさもそんなに巨大なものとは思われなかったとのことです。

その後、何回か連絡を受けながら、調査日をたまたま時間の空いた、12月14日(日曜日)としました。

これは玄蕃の墓ではない

これは玄蕃の墓ではない

伊木力みかんで有名なその場所は、長崎県西彼杵郡多良見町山川内郷(現 諫早市多良見町)にあたり、みかん畑が急傾斜の山肌を朱色に色づかせ、灰色の空とくすんだ大村湾との間で不思議と輝いて見えたそうです。

発見時の墓所
発見時の墓所

「あれなんですよ、あれが玄蕃の墓といわれているものなのです」

車窓越しに宮崎氏が指さす方向を見上げると、大石氏の目に、想像以上の大きな自然石墓石が飛び込んできました。写真で見た印象とはまるっきり違う大きさです。明らかに江戸初期の墓石だと直感でそう思え、徐々にわき上がってくる興奮で、先ほどまでの嫌な気分はどこかにフッ飛んでいたそうです。

永年に渡りこの墓石の供養をされていた井手氏ご夫妻と宮崎氏と共に急傾斜のあぜ道をのぼり、墓石の正面に立つと、正面に微かに年号と二名の戒名が読め、字の彫り方からみても、明らかに江戸初期の墓石だとわかりました。
墓石の裏にまわってみると、裏面の左隅にはっきりと「千々石」の文字が読めます。思わずその下の土を手でどけると、そこには紛れもなく「千々石玄蕃允」と刻まれていました。この墓石を玄蕃の墓としたのは、裏面の片隅に刻まれた人物名からだったのです。
ただ、大石氏は確信しました。

「これは、玄蕃の墓ではないと思います」

正面と裏面の銘の入れ方からみて、玄蕃は被埋葬者ではなく、墓石を建てた施主なのです。

「玄蕃の両親の墓の可能性が高いと思います。玄蕃の両親といえば、千々石ミゲル夫妻、間違いないですよね」

当たり前の質問を繰り返しながら、まさか、いや本当に、これがあのミゲルの墓なのかもしれないと、大石氏の興奮は絶頂にあったそうです。予想もしなかった結論に、この日から大石氏の伊木力墓石調査の日々がはじまりました。

墓所の所有者「浅田」をたどる

墓所の所有者「浅田」をたどる

当時の多良見町西方町長が登記簿を取り寄せたところ、所有者は「浅田勤三郎」で、住所は多良見町ではなく、対岸の東彼杵郡大村(現大村市)でした。江戸時代の大村藩城下です。

墓石に刻まれた「妙法」という文字、ならびに戒名に「院号」が使われていることから、この墓石に関係するのは日蓮宗の寺院ではないか。没年に近い年代で、伊木力の近くにあった日蓮宗の寺院に訊ねてみよう。このような推理で、日蓮宗寺院である琴海戸根町(旧戸根村)の本住山自證寺への訪問を決意したそうです。

本住山自證寺は大村藩城代家老の浅田家が建立した大村八ヵ寺のひとつです。ここで墓地所有者の浅田家をたどるつながりがみつかりました。

ご住職に研究調査という名目で位牌の閲覧を快諾いただき、浅田家代々の位牌を確認しました。浅田家の位牌は、位牌箱に納められた31枚の板材に戒名などが記されている形の板位牌となっていました。そこには浅田家代々100余名の戒名、そのうち73名は命日、墓所まで記されています。

大石氏が一枚一枚確認していくと、19枚目の附録の1という板位牌に、伊木力墓石に刻まれた夫妻の戒名を見出したのです。伊木力墓所の埋葬者は、千々石玄蕃允の近親者であり、大村藩家老浅田家の縁ある夫婦でもあるということなのです。

浅田家の板位牌

登記簿所有者名「浅田勤三郎」と「大村藩城代家老の浅田家」のつながり

登記簿所有者名「浅田勤三郎」と「大村藩城代家老の浅田家」のつながり

伊木力墓所の登記簿

伊木力墓所の登記簿に記されている「浅田勤三郎」とは誰なのか、まだわかりません。

大村城下の浅田家屋敷は明治時代に売却され、浅田家老家の家系は大村市内には住んでいません。そのため、明治以降の浅田家の人物の名前はわかりません。大村藩時代の家臣団の家系図を網羅した「新撰士系録」には江戸時代の系譜までしか記されてなく、浅田家の系譜を見ても「浅田勤三郎」の名前は見当たりませんでした。

そのため、唯一の手掛かりとなるであろう、大村市内にある浅田家墓所を訪ねてみることにしたそうです。大石氏は、墓所に毎日新聞社の記者の方と一緒に行き、二人で林立する墓石を見回り、「浅田勤三郎」の名前を手分けして探したところ、記者が「先生、ありました。」と興奮気味に小ぶりの墓石を指さしたのです。
そこには「淺田勤三郎 同室秋子 墓」とありました。

ここで伊木力墓石と大村藩家老の浅田家とのつながりがはっきりしました。伊木力墓石に大村藩家老の浅田家が深く関与し、さらには明治以降にも続いていたことが証明されたのです。

TOP第一次調査・第二次調査第三次調査

| 調査開始までの歩み |

| 調査開始までの歩み |

発掘調査に向かう長く厳しい道のり

発掘調査に向かう長く厳しい道のり

2004年2月に「千々石ミゲルの墓石発見」報道がありましたが、発表では「千々石ミゲルの“ものとみられる”墓石」と記され、ミゲルの墓との断定はなされませんでした。

墓所発掘が千々石ミゲルの墓と確定する最終手段であることは、大石氏をはじめ地元・多良見町の西平隆町長(当時)も共通の認識でした。同町教育委員会は記者発表会で「土地所有者らと相談したうえで、発掘も含め墓を調査する」と明言。また、不明だった土地所有名義「浅田勤三郎」の子孫も判明し、翌2005年3月に、子孫の浅田昌彦氏と姉の一力昭子氏が墓所を訪問。自治体による発掘調査実施に期待して「墓所の調査に協力したい」と述べました。

現地でも発掘調査への期待も高まっていましたが、この時期に多良見町は諫早市と合併。管轄は多良見町から諫早市に移ったことで、調査は仕切り直しとなっていたようです。2006年11月には大石氏らが諫早市役所を訪問し、発掘調査実現への期待を伝えましたが、合併で広域化した市内の文化財調査が多岐に及び、千々石ミゲル墓所の扱いもこれからとの回答でした。 遺跡の発掘調査は多額の費用と期間に加えて、さまざまな事前準備や関係調整が必要と思われ、当時はとても個人での遺跡調査など考えられず、諫早市の判断を待つしかありませんでした。その後、調査は実現せぬまま数年の月日が過ぎていきました。

地域の後押しを受けて民間主導の発掘調査へ

地域の後押しを受けて民間主導の発掘調査へ

一方、千々石ミゲル墓石発見報道を契機に、ミゲルに対する地域の方の関心は高まっていきました。ミゲル生誕の地・雲仙市千々石町には「千々石ミゲル研究会」が発足し、活発な活動が始まりました。地元の多良見町でも「たらみ歴史愛好会」が千々石ミゲルに関連する研究を開始。ほかにも長崎市や大村市などに住む多くの方々が千々石ミゲルの存在に興味をもち、発掘調査ヘの期待も増しました。

文献史料調査等では、ほぼ千々石ミゲルの墓所で間違いないとされる当墓地ですが、埋葬者の確定のみならず、謎とされるミゲルの後半生を探る手掛かりがあるとすれば、この墓石の下ではないか。一刻も早く、発掘調査を実現したい。このような思いが、地域の方との共通認識となっていました。 そんな中、民間主導によって発掘調査を実施するという案が出てきました。この頃浅田氏も、昭和40年代の土砂崩れで半ば埋もれている墓所を元の姿に戻すのは、子孫である自分の使命と考えるように。浅田氏はこの案を大石氏に相談し、賛同を得て、墓所整備という形の私的調査実施を決断しました。千々石ミゲル墓所発見から5年後の2009年頃のことです(国内での遺跡調査は住宅・ビル建築や公共事業などの土地開発に伴う実施が大半を占め、民間組織による学術目的の発掘は稀有な例であると後に分かりました)。

発掘調査に必要な手続きや準備を進める

発掘調査に必要な手続きや準備を進める

まずは難問となる、墓所の名義変更から着手しました。明治20年に亡くなった名義人・浅田勤三郎からの名義変更です。行政書士による調査では二桁に及ぶ未知の相続人の方々が確認され、順番にお願いをしてまわり、なんとか一年近くかけて名義変更を完了。しかし、課題はまだまだ山積でした。

調査はどこに委託するのか、費用と期間はどのくらいかかるのか、人手はどう確保するのか。判らないことばかりでしたが、大石氏や各研究会の方々のご尽力によって一つ一つ解決していきました。発掘調査の実施時期は重要でした。地元の方にご理解・ご協力をいただくには、当地の名産である伊木力ミカン栽培などの農繁期を避けねばなりません。ご相談をした上で、9月頃と定めました。また学術的裏付けのある調査とするためには、墓所の境界線確定も必須要件であり、これも苦労を重ねながら2013年に成されました。

2014年3月には、雲仙市で市民ミュージカル「至純の人 千々石ミゲル」が上演され、発掘調査への機運はさらに高まりました。そして千々石ミゲルの墓石発見から10年、民間主導の調査を決断してからも5年経った2014年9月、ついに千々石ミゲル墓所第一次調査が現実化する運びとなりました。 実施にあたっては「千々石ミゲル研究会」ならびに「たらみ歴史愛好会」の方々の全面的な支援を受けて、名目上は浅田家による個人的墓地整備でしたが、実質的には、文化財保護法で定められた形式を遵守した発掘調査として実現したのです。発掘調査担当には、別府大学史学・文化財学科教授で文化財研究所所長の田中祐介先生にご就任いただき、ようやく第一次調査が開始されました。

TOP墓石発見第三次調査

| 第一次調査・第二次調査 |

| 第一次調査・第二次調査 |

調査のはじまり

調査のはじまり

千々石ミゲルの子孫である浅田氏は、地元の多良見町(現諌早市多良見町)や諌早市、 ミゲル生誕の地千々石町(現雲仙市)や大村市など、縁のある多くの方々が千々石ミゲルに思慕の想いを持っていることを知るなかで、自身の想いを固め、調査の実施を決意しました。

子孫 浅田昌彦の想い

先祖代々祀ってきた墓所を建立当時の姿に戻して後世に残したい。

そのためには土砂崩れで流入した土砂を撤去し、先祖が建立した当時(想定1630年代)の姿に戻す。

本墓所の被葬者を特定する手がかりを見出したい。

埋葬された人物を明らかにすることが、言いかえれば被葬者は千々石ミゲルであることを示す何らかの証左を見出してあげることが、浅田家の子孫として真の先祖供養となる。

第一次調査・第二次調査で明らかとなったこと

第一次調査・第二次調査で明らかとなったこと

2014年(平成26年)9月に第一次調査を行い、土砂を撤去したところ一辺2.8mの方形基壇の上に墓石が立てられていることが確認されました。その後地中レーダー探査を行い、墓碑の地下に墓壙の存在を推定させる反応が確認されました。

第一次調査前(左)と後(右)
基壇内の礫郡
基壇内の礫郡

そこで2016年9月の第二次調査では、基壇の下部にある墓壙を検出するために基壇を調査したところ、明治期前後に生産された陶磁器片が出土し、また墓石に接する礫層は乱れていることから、明治時代のはじめ頃に整備されたことが判明しました。近代になっても管理がなされて祀られていたことが確認できたのです。
しかし、石組基壇内の埋土は表土を含めて4層に分かれており、大きく深く続いていました。調査を継続するためには調査期間の大幅な延長と、大幅な費用の増加が見込まれ調査体制の再構築が必要であると結論づけられ、第二次調査は中断となり、墓壙の存在は確かめることができませんでした。

第一次調査 【実施主体】浅田昌彦、【統括】大石一久
【協力】千々石ミゲル研究会(雲仙市)、たらみ歴史愛好会(諫早市)
第二次調査 【実施主体】浅田昌彦、【統括】大石一久
【協力】千々石ミゲル研究会(雲仙市)、たらみ歴史愛好会(諫早市)、千々石ミゲル会・諫早(諫早市)、大村歴史懇話会(大村市)

TOP墓石発見調査を決意するまで

| 第三次調査 |

| 第三次調査 |

2017年8月の第三次調査では、基壇を一度解体し、下部を丁寧に調査しました。その結果、墓石に向かって右側から被葬者を埋葬した施設が発見されたのです。墓石に刻まれた「自性院妙信」が被葬者になります。地中レーダー探査の結果、墓石の西側にも墓壙(墓穴)を示す反応があるため、こちらに「本住院常安」=千々石ミゲルが葬られている可能性が高いと思われます。

千々石ミゲル夫妻伊木力墓所 断面模式図
墓石拓本・墓石立面(正面)
墓石拓本・墓石立面(背面)

第三次調査で明らかとなったこと

第三次調査で明らかとなったこと

 解明01  二段掘りの石標木棺墓
 解明01 
二段掘りの石標木棺墓
墓壙(調査時) 両側に竿通しが見える
墓壙(調査時) 両側に竿通しが見える

発掘調査で発見された埋葬施設は、上下二段に掘った墓壙の底に長持(木製)を転用した木棺を納めていました。
墓壙の上段の大きさは縦横2mの正方形で深さは40cm前後である。下段は東西約1.2m、南北約1.6m、深さ約80cmを測る。木棺は長さ約100cm、幅約50cm、高さ約50cmを測ると推測されます。
木棺と墓壙の間には、拳大から人頭大の礫を詰めて石槨(死者を葬るのに用いられた石製の構築物)としていました。石槨の上部には、下部の墓壙を覆うように3枚の大きな石材が置かれており、上部は礫と土砂によって丁寧に埋め戻されていました。この埋葬施設の墓壙の規模は大きく、礫によって石槨を作って丁重に被葬者を埋葬していました。同じ時期の墓の多くが木棺を地中に納めるだけの簡単な構造であることを考え合わせると、かなり上級の社会的地位をもつ者の墓であることをうかがわせます。

 解明02  出土した被葬者の遺骨と副葬品
 解明02 
出土した被葬者の遺骨と副葬品

墓壙からは、 木棺に納められていた被葬者の骨や歯の一部、 遺体に添えられていた副葬品、 棺として転用されていた長持に使用されていた鍵のかかった錠前、角金具、蝶番、竿通し、釘などの金属製品などが出土しました。

副葬品の玉類は、大きさにより三種類に分けられます。白色玉と青色玉は直径5mm前後、紺色玉と黒色玉は4mm前後、そして琥珀色玉が3mm以下、材質は白色玉と紺色玉のうちの1点と黒色玉は鉛ガラス製で、ほかの玉はすべてアルカリガラス製でした。
玉類に近接して出土したアルカリガラス製の板ガラス片は、厚さ1.5mm、直径27mmの円形だったものの半分の破片です。その近くで出土した布片はその形状からガラス片にともなうものと考えられます。玉類のうち琥珀色玉のような小さい玉は、ガラス片とともにこの布を飾っていた可能性があります。また大きな玉はロザリオの一部ではないかと推測されます。

竿通し

錠前

玉類(副葬品)

板ガラス(副葬品)
 解明03  被葬者の姿
 解明03 
被葬者の姿

被葬者の遺骨は大腿骨などの骨と歯の一部が確認されました。歯から推定される被葬者像は、35歳を中心に25~45歳前後の女性。
横臥屈肢(横向きで足を曲げる)の姿で、棺に納められていました。これは当時の仏教式の埋葬スタイルと思われます。しかし被葬者の胸辺りにガラス玉59点、板ガラス片1点とそれに付随する布片が副葬されていました。被葬者の胸には布製の聖遺物にガラス板を嵌め玉で飾ったものとロザリオがかけられていたことが想定されます。キリシタン遺物が副葬されていたのです。

また、この女性はその推定年齢から考えて、ミゲルの2番目の妻に当たると推定されます。

木棺(長持)復元図
第三次調査 【実施主体】千々石ミゲル墓所発掘調査実行委員会 会長 立石 暁 【統括】大石一久
【協力】千々石ミゲル研究会(雲仙市)、たらみ歴史愛好会(諫早市)、千々石ミゲル会・諫早(諫早市)、大村歴史懇話会(大村市)、オリエントアイエヌジー(長崎市)、喜々津青果(諫早市)※順不同

TOP墓石発見調査までの歩み第一次・第二次調査

| 最後となる第四次調査へ |

| 最後となる第四次調査へ |

2021年に行う予定の第四次調査がおそらく最後の大規模調査となります。千々石ミゲルの墓と思われる石碑発見から17年。ミゲルの真実に近づくべく調査がいよいよ始動します。是非皆様のご支援、ご協力のほど何卒よろしくお願い致します。