-special interview-

最後の発掘調査にかける想い

最後の発掘調査にかける想い

千々石ミゲル子孫 浅田昌彦 / 石造物研究者 大石一久

千々石ミゲル子孫 浅田昌彦 / 石造物研究者 大石一久

二人の出会いが、一人の謎を解き明かす。最後の大規模調査となる第四次調査への想いとは。

二人の出会いが、一人の謎を解き明かす。最後の大規模調査となる第四次調査への想いとは。

► interview part.1
► interview part.1
「代々受け継いできた墓にどなたが眠っているのか、私の代ではっきりさせることが役割」

代表 浅田 昌彦(千々石ミゲル子孫 千々石ミゲル墓所推定地所有者)

子孫浅田昌彦

一歩ずつ、着実に広がっていく発掘調査への想い

 2004年2月に発見された、千々石ミゲルのものと見られる墓石。不明だった土地所有名義「浅田勤三郎」の子孫である私にとっても全く予期せぬ発見でした。そもそも浅田家は、明治以降は関東に移り住み、私も現在まで東京で仕事や生活を送っています。それが墓石発見後に、千々石ミゲルがご先祖だと知らされて。名誉なことではありながら、どうすればいいものかと困惑しました。そんな私の気持ちが墓所の発掘調査に傾いたのは、大石さんや地元の方の存在が大きな要因です。発見後は年に数回長崎を訪れていましたが、会うたびに地元の皆さんの盛り上がりを感じていました。墓石の発見が契機となり、生誕地の雲仙市千々石町では「千々石ミゲル研究会」が発足。ミゲルを題材とした市民ミュージカルも上演され大きな反響がありました。また墓石のある多良見町では、「たらみ歴史愛好会」が千々石ミゲルに関する勉強会を開催。他にも大村市や長崎市など、様々な地域の方から関心の高さを感じました。そんな中で私自身、発掘調査を行うことに対し、徐々に前向きな気持ちとなりました。

未来に伝える墓石発見から調査に向かうストーリー

 これまでの調査と、最終段階となる第四次調査を含めて、全て民間主導で発掘調査を行っています。私としても、自治体任せにしない地域の姿勢は有り難く感じています。もちろん地元諫早市とは連絡を密にし、逐次指導をいただいてきており、今後もこの方針は変わりませんが、これまでも墓石を守り、受け継いでくださったのは地域の方々であり、発掘調査後もこの墓を維持して伝えていくためには、墓所発掘のストーリーとともに地域で受け継がれることが大切です。そういう意味で、この墓石発見からの17年間には何かしらの意味があり、私を含め、皆さんのミゲルに対する想いが熟成するために必要な期間だったのかもしれません。

大切にされてきた墓を明確化し、地域とともに受け継ぐ

千々石ミゲルの墓と思われる石碑

この墓は、まだ千々石ミゲルのものだと認められていません。誰が埋葬されているのか分からない墓。しかし、私の先祖や多良見町の方々が大切に受け継ぎ、守ってきたことには変わりありません。千々石ミゲルのものであるとされる墓石が私の代で発見されたことも、あるの種の縁というか。不思議な使命感のようなものを感じています。この墓は本当に千々石ミゲルのものなのか、そして、どうしてこれまで明らかにされてこなかったのか。その判断は、あくまで専門家の方に委ねます。私としては、大切なご先祖さまの墓に眠っている方がどなたであれ、後世にそれを残していきたいと考えています。そしてもし、千々石ミゲルの墓であれば、その想いとともに地域の方と一緒に受け継いでいきたいです。

► interview part.2
► interview part.2
「キリシタンと日本の歴史の新たな一面を浮かび上がらせる、千々石ミゲルの棄教の真偽」

調査統括 大石一久(石造物研究者 元長崎歴史文化博物館グループリーダー)

予感が確信へと変わっていく発掘調査

 第一次調査では墓石周辺の土砂を取り除き、地中レーダー調査によって墓碑の地下に墓壙の存在を推定させる反応を確認。第二次調査では明治時代初期に整備されたことが判明しました。そして第三次調査で基壇を一度解体すると、被葬者の遺骨と副葬品が出土。ガラス片やガラス玉はロザリオの一部、そして被葬者はミゲルの妻と推定され、さらに地中レーダー調査から、隣の部分にも墓壙の反応が確認されました。ここに眠っているのが、千々石ミゲルである可能性が高いと思われます。
 ガラス片をはじめとする副葬品が出てきたときは、本当に驚きました。キリスト教を棄教したはずの千々石ミゲルの墓に、信仰を思わせるものが納められていた。これはミゲルの棄教自体を再考するに値する衝撃的な事実です。私としては文献での調査やこれまでの発掘から、ミゲルは最後まで棄教せず、キリスト教を信仰していたのではないかと推測していましたが、実際に副葬品が出土するとその想いがより強くなりました。

第四次調査がもつ大きな意味

 もし第四次調査でも被葬者の遺骨と副葬品が出土し、それが千々石ミゲルのものであると推測できるようなものが見つかれば、大きな発見です。これまで天正遣欧使節に関わるものは日本で見つかっておらず、それに類するものがあれば、ミゲルの墓であることはほぼ間違いないでしょう。第三次調査でガラス片やガラス玉が出土したことで、晩年もキリシタン信仰を続けていたという推測にかなり近づきました。次の調査で、千々石ミゲルの墓であること、そして最後までキリスト教信仰を貫いていたという真実が明らかになることを願っています。

千々石ミゲルの生き方が私たちに与える影響

 千々石ミゲルの墓だと確定することで、16世紀から17世紀のキリシタン文化が別の面から見えてきます。当時のキリスト教は日本での布教を進める中で、インカルチュレーション(その土地の文化や宗教との共存)に苦慮したと考えられます。だからこそキリシタンは厳しい弾圧・迫害を受けることとなります。おそらくそうしたキリスト教の布教方針に立ち向かったのが、イエズス会を脱退した千々石ミゲルであり、彼はどうすれば一神教のキリスト教が日本で根付くのか、相当悩んだはずです。だからこそ、ミゲルは最後に潜伏キリシタンの集落に身を潜めたのではないでしょうか。

 私はミゲルの生き方は、現代にも大きな影響を与える、身近なものだと考えています。日本の伝統や文化を守りながら、いかに新しい文化や考え方を受け入れるのか。今回の発掘調査で改めてその波乱の人生が注目され、歴史の新たな一面が明らかになればと思います。